1.ケルト文化の歴史的記述

 ケルズの書の旅は、自ずとアイルランドから始まる。アイルランドと言えばケルトの文化を想起する。ケルトの文化が記されて、現存する歴史書にはギリシャの歴史家及び、哲学者の言及が在るが、ミレトス出身の歴史家ヘカタイオス(前550頃~475年頃) が初めてで、ケルト人について民族学的に興味深い記録を伝えているのが歴史家ポリュビオス(前202頃~120年頃)である。彼の著作『歴史』の中で比較的まとまりのあるケルト人の生活に関する記述あり、ケルト人は技術を持たず、農作と戦、以外は何もする事が無い単調な生活を営んでいる記している。

 ケルトの歴史、文化に欠かせないがドルイドの存在で在るが、そのドルイドの記述をしたのがディオゲネス・ラエルティオス(後2~3世紀)はその著『哲学者列伝』である。ドルイドをインドのブラフマンの支配的知識階級の様に扱っている。歴史を振り返るとケルト文化に重要な著述をしたのがカエサルである。前58年から51年までの8年に渡って行われたカエサルのガリア遠征の記録は『ガリア戦記』に記している。『ガリア戦記』第13節に「二通りの人間の一方はドルイデスであり、もう一方は騎士である。ドルイデスは神事にたずさわり、公私にわたる犠牲を行い、宗教を解釈する。ドルイデスのもとには教育を受けに多数の青年が訪れ、尊敬を集めている。公私にわたるほとんどすべての論争を裁決し、犯罪が行われたり、殺人がおこったり、相続や境界の論争がおきたりすると、同様に裁決を下して、賠償や罰金を決める。個人であれ部族であれ彼らの裁決に服さないと、犠牲にあずかるのを禁ずる。彼らのあいだではこの罰は最も重い。」と記している。

 カエサルが『ガリア戦記』を書いた頃は、政治的な意図が強いが、ケルト人がローマ人から圧迫を受け、ドルイドの賢威は失墜していたとの事で有る。ケルト文化はドルイドの神託を受けた支配的知的階級を中心に、部族の王の下に戦士、上層階級、工匠の吟遊詩人、職人とかが在った。しかし、ケルト文化は神の信仰は部族単位で在ったが、部族を超える神とかは出来なかった。そして部族を超える普遍的な理法とかは発生しなかった。

2.聖パトリックの伝承によるアイルランドでのキリスト教受容

 聖パトリックの祝日は聞いた記憶があると思うが、アイルランドの本国はともかくアイルランドの移民が入った国、アメリカ、オーストラリアそしてイギリスでも盛大に祝われている。聖パトリックの祝日は聖パトリックの命日の3月17日であるが、アイルランドのキリスト教の宣教の先駆者で、宣教に一生を捧げた人である。聖パトリックは奇数な運命を辿りアイルランドの宣教活動を行う。聖パトリックのグレートブリテン島西部のウェールズ地方に387年頃、生まれ16歳で海賊により奴隷としてアイルランドに渡り、羊飼いなどをして6年間働く、その後、神の声の精霊が聞こえ、1人、故郷のウェールズまでの300キロの距離を在る自宅へと帰る。その後、ヨーロッパ大陸で7年間神学を修めて、自分を虐待したアイルランド人に愛の宣教をする決心をする。

 聖パトリックの宣教は、アイルランドのみならず、歴史的に見ても意義深い、地理的に見てローマの圧迫の影響が少なく、ケルト文化が残るアイルランドでキリスト教の宣教は、その後の歴史に与えた影響は大きい。まず聖パトリックの宣教はローマ教会の背景。次いでアイルランドにおける宣教の広がりと世俗権との関わり。そして「アイルランド人の救い」に対する聖パトリックの権威と伝承が基軸と成り、9~10世紀頃の『アイルランド聖人録』成立した著書では、聖パトリックを中心に教会創設者達を聖人と位置づけ、アイルランドでのキリスト教受容が三期分けて記している。

 第一期(440~543年)では、パトリック以来の聖人達に言及する。「彼等は教会創設者で、特別な聖性を持った司教350。皆唯一の頭キリスト、唯一の指導者パトリックに従った。・・・・・これら聖人達の司教職は四代にわたって続き、皆ローマ人、フランク人、ブリトン人である」とし、その教会組織が氏族領域トゥアス毎に配置した司教制度であることを指摘する。
だが続く第二期(543~599年)になると、教会の状況に制度的大変革があったことを伝える。即ち、司教に代わって修道院長が多数を占め、約300に及ぶ共同体は各々異なる規則と独立した裁治権を有している。それらはウェールズの聖ダヴィドや聖ジルダスの影響を受けているとし、代表的な修道院共同体の名が連ねられる。この時期に、アイルランドにキリスト教の社会が浸透を促し、民族固有の社会・文化風土に適応したアイルランド修道院制度の伝統的基盤が形成されていったと考えられる。更に第三期(599~665年) には、「共同体は百」を数え、大修道院共同体に統合されていく様相を示唆する。

 上の『アイルランド聖人禄』を見るとアイルランドにおけるキリスト教の受容はすんなりと行われたと思うが、やはり聖パトリックの当時アイルランドの古都であるターラでの活動が、その後のアイルランドにおけるキリスト教の受容に多大な影響を落としたと考えられる。ターラでのドルイドの抵抗は在ったが、古都でターラの王を改宗させる事が成功する。「アイルランド最大の王国でありこの地の異教と偶像崇拝の拠点」としての、この城をもつ王を改宗させることは、全アイルランドのキリスト教の象徴として、大きな比重を語り、西方世界に対するローマ教会の宣教政策の理念が揚げられる。つまり、世俗権に対する裁治権の広がりが確立し7世紀後半の修道教会の現実的動向を促し、聖パトリックいや、ローマ教会のアイルランドにおける一大転機と成った。

3.ケルズの書とケルト美術の装飾性

 ケルズの書は「西欧にあって最も豪華な福音書」と形容される様にアイルランドで最高国宝級の複音書で在る。「ダロウの書」、「リンディスファーンの福音書」ともにケルト文化の三代写本で、『ケルズの書』は、縦33センチ、横24センチの大きさをもっ華麗な典礼用福音書である。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四つの福立白書のテクストは、中世に流布するウルガータ訳に加え、それよりも古い古ラテン語訳も含まれており、アイルランドにおける福音書写本の伝統の古さを教える。その330葉(660ページ)の羊皮紙のページ中、僅か2ページを除いて彩色が施されているというきわめて美麗な写本だ。鉛丹や員殻虫の赤、白鉛の白、石黄の黄、緑青の緑、ラピスラズリの群青、薄層の薄紫など鉱物性の顔料、それにインディゴや大青から取られた藍の植物性の顔料、動物の胆汁から取った黒やこげ茶といった色とりどりの顔料が使われ、この鮮かな彩りを纏いながら、精綴このうえない〈文様〉がページ毎に描き出されている。

 ケルズの書を語る上で、ケルト文化の美術的装飾とアイルランドにおけるキリスト教の位置づけを忘れる事は出来ない。古代以来のケルト美術の遺産が伝えられている。その遺物の年代は、大陸に居住したケルト人がローマ人とゲルマン人に追われアイルランドに来島した紀元前300年から、ケルト修道院文化のもとで発展する中世にまでわたる。近年以降、ヨーロッパ諸国の王宮や教会を華やかに飾ったルネサンス、バロック、ロココ、新古典主義といった様式は、この間アイルランドにはほとんど育たなかったと言ってよいだろう。 しかし、ケルト美術が見直されたのは1801年に強行された英愛併合ののちアイルランドに高まった独立運動の途上、それまで埋もれていた古代、中世のケルト美術がアイルランドの考古学者、古美術家たちによって発掘、収集され、ヨーロッパ美術史全体にとって極めて重要で在る事が認識された。その影響が在り当時、ヨーロッパ大陸でもケルト美術の収集が始まった。ケルトの装飾美術美術の〈渦巻文様〉、〈組紐文様〉、〈動物文様〉という文様のフォルムは、曲線や螺旋の形態を基軸として、われわれの眼にに無限の生成する美術は、その起源は大陸金工品装飾を生んだラ・テーヌ時代まで遡り、ケルズの書の写本まで、おおよそ1500年間、アイルランドの想念に息づいてきた。

 他方、キリスト教との関連して、この豪華なケルズの書の写本の誕生は、アイルランド修道院制度の父と称えられる聖コロンパ崇拝と結びついる。コロンパはアイルランド北西部の王家に生まれるが神に仕える身となって、デリーやダロウなど各地に修道院を創設したあと、536年ピクト人(スコットランドのケルト人)を布教するためスコットランド西部の小島アイオナに渡った。アイオナ修道院はケルト系修道院のなかで最も高い地位を保ち、ノーサンブリア(北英) への布教の拠点ともなった。800年頃、創設者コロンハの偉業を称える典礼用福音書の制作が始められる。しかしこの頃からスカンディナヴィアより南下したヴァイキングの侵攻が活発化し、数度にわたって修道院が襲われ、ある年には一度に60余人の修道士が殺毅されたという記録もある。制作途中の写本を携えて修道士たちが難をのがれてやって来たのが、アイルランド中東部ミーズ州のケルズであった。それはおそらく804年から806年の間のことで、それはケルズ修道院にコロンパの偉業を称え新しい教会が献堂された時期に奇しくも重なる。この頃までにアイオナはヴァイキングの脅威に晒れるなかで、ケルト教会の中心としての機能を危くしていた。877年にはコロンパの聖遺物もがアイオナからここに移され、ケルズ修道院はアイオナのステイタス、つまりケルト教会に冠たるコロンパ系修道院の権威を受け継ぐことになる。こうした背景のなか、制作の途中でアイオナからケルズにもたらされた福音書写本が、コロンパ崇敬の象徴としてケルズの地で完成されたことは、『ケルズの書』に関する最古の資料、『アルスター年代記』に読み取れよう。その1007年の頃は『ケルズの書』を「西欧最高の至宝たるコルムキル〔コロンパ〕の偉大なる福音書」と明記しているとともに、写本が修道院の宝物として制作当時から2世紀たったのちにも大切に保管されていたことを証すひとつの事件を記録している。すなわち写本が余りに豪華であったため、その扉に施された宝飾が狙われて石造りのケルズの大教会の西側聖具室から夜陰に乗じて盗まれたが、ふた月と20夜の後、扉の黄金が奪われた状態で土中から発見されたという出来事が在った。

 現代では、ケルズの書は1539年のイングランド政策、クロムウエルのアイルランド侵攻と二つの難を逃れて、現在は、ダブリン大学のトリニティー・カレッジ博物館に所蔵されており、半年に一度のペースで展示するページが変えられる。12世紀、ウェールズの聖職者ジラルドゥスはケルズの書を見て「これおしなべて人の業にあらず天使の御業なり。」ダプリン大学トリニティー・カレッジの深くカーテンを垂れた旧図書館「ロング・ルーム」の、吹き抜けの天井の高さまで古書に埋められた展示室で『ケルズの書』を眺めるならば、現代のわれわれもまたジラルドゥスと同じ驚きを味わうだろう。

 
 

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参考引用文献:ケルト―伝統と民俗の想像力 (中央大学人文科学研究所研究叢書)

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